いらっしゃいませ。3月も始まりました。
3月も毎週水曜と木曜がお休みとなります。宜しくお願い致します。
22歳の新卒で入社した外食企業の会社員時代、私には苦手な上司がいた。彼は叩き上げで出世してきた会社人間で、部下にも自分が歩んできた過程と同じように育ってほしいと願っていた。それは仕方ないことだと、部下は皆十分承知でいた。
当時私も初めての社会人だから、会社の色に染まろうと必死に働いた。それでも1年目はどう頑張っても、やはりポンコツ。その上司は「お客様の前では、アイコンタクトで俺の指示を察しろ」と言う。「そんなん分かるか」、私は毎日思っていた。十日市のようにお店が混雑する日々。ぴりぴりした雰囲気の中でミスをしたというものなら、彼から蹴りが飛んできたこともあった。優雅に手取り足取りコーヒーを教わったわけではない。ちょっとは使いものになれるようにと、私はお店のマニュアルを覚えるのに必死であった。
当たり前だが、イレギュラーなことは日常的に起こっていた。ポンコツは毎回困っていた。そんな私に対する上司からの助言が忘れられない。
「困ったら、人としてどうなのか考えろ」
「マニュアルにないことは日常茶飯事に起こるもの。そんなときは、人としてどのような言動をとることが正解なのか、ときには自分の頭で考えて判断しろ。人間として間違っていない言動ならば、大体のことは本質からズレずに済むのだから。」彼の言わんとすることはこういうことだった。この言葉をもらった、いや、頂いたとき、初めてこの上司を人間的に尊敬した瞬間であった。
お茶の間に笑いを届ける芸人さん、国民の憧れの的となる俳優さん、国民を代表して立つ国会議員。どんなに能力があるこういった人たちでも、ニュースで報道されてしまうことは、この「人として」の過ちだと思う。私も少なからず、人としてどうなのかという言動をとることがある。帰宅して風呂に入っては、「やってしまった」と反省する日々だ。私の場合そういったときは決まって、人としての余裕がないときがほとんど。毎日コップに9割の水が入った状態で仕事をしているため、何か新しい案件を自分で創ったり又は頂いたりすると、すぐに水が溢れてしまう。
守ることが難しいと予感する約束は、はじめからしないほうが周りに迷惑をかけないで済む。また、離れた相手方の状況を見えていないなか、SNSのメッセージなどを使って、あまりにも簡単に連絡を取れてしまう環境も最近疑問に感じる。あまりにもスマホやパソコンが便利なため、それらを使って簡単に人を操作できてしまうし、逆に思うように操作されてしまう。(ただ、SNSのやりとりは災害時に役立った記憶があるため、すべて辞めてしまうのも不安に思う。)信頼の糸を結んだままキープするには、自分の状況やルールをあらかじめ伝えるべきだし、もちろん相手方のそれらも考慮するべきだと思う。お互いの状況がわかった上でのコミュニケーションは、人としてズレないし何より安心する。
「人としてどうなのか」
こうしてマニュアルなんか存在しない独立した環境にいる今、かつての苦手な上司から言われた一言がこんなにも骨身に染みるとは思ってもみなかった。それならば時が経った今、かつての上司にお礼を言いに行くかというと、やはりそこまではしない。「あのとき叱ってくれてありがとうございました」、こんな青春ドラマのようなセリフも言えない。
ただ間違いないことは、これはずっと立ちはだかるテーマだろうし、私の指針となるということだ。
かなりの時間差だが、上司のボディーブローはずっとこの先も効いていくのだろう。
Lover’s Coffee